残留孤児の思い
私たち中国残留日本人孤児の体に流れているのは、紛れも無く日本人の血です。「葉は落ちて根に帰る」と申します。これは、「故郷に戻る」事を意味します。この事は故郷日本へ帰ってきた孤児達の唯一の選択でした。
一九七二年に日中国交が正常化しました。私達は、家族と共に慌ただしく、祖国日本に帰ってきました。しかし、今では孤児の年齢が、一番若い人でも70歳以上になり、残留婦人は90歳以上になりました。私達の本当の心の内を申しますと、祖国に帰っては来たけれど、中国で人生の半分を過した者たちにとっての60年は、言葉の上でも、生活の上でも、全てに於いて中々馴染めず、どれほど日本の社会に溶け込もうと思っていても、とても困難な事です。祖国に帰っては来ましたが、年老いて記憶力も衰え、言葉の学習も中々音声記憶できません。一生懸命学んでいる傍から忘れてしまいます。ことばの問題は帰国してから、最も大きな障害になりました。ご近所の方たちとは、簡単な挨拶しか出来ません。何か話をしたくとも話せず、困った事や分からない事を聞くことが出来ません。
医者に掛かりたくとも、これまた困難の連続です。
現在は、市役所に相談員が配置されましたが、すべての孤児の問題を解決する事は不可能です。私たちは皆70歳以上です。誰もが何らかの病気を持っています、癌であったり、高血圧、心臓病、喘息、肝炎、胃の病気、関節の変形、糖尿病、リュウマチ、認知症、中風等病気で医者に掛かると言う事はとても大変な事です。特に入院などした時、入院期間中毎日相談員が付き添う事は不可能です。
医者に病状を聞かれても聞き取れず、聞かれた事に答える事もできません。私達患者は自分の病名や病状そしてどのような治療をするのか知りたいと思っています。入院中何に気をつけ注意しなければならないのか、看護師さんから指示されても、聞き取る事も出来ません。伝える事の出来る言葉は「痛い」「痛くない」「だいじぶ」(大丈夫のこと)くらいで医者も患者も打つ手がありません。
ある夫婦は連れ合いを亡くしました。病気を抱えた帰国者がただ一人残されました。何をするにも動作が不自由です、買い物、食事の用意、洗濯や台所の片付けなど沢山の事で困っています。しかし、介護保険制度も制度上の制限があり中々使えません、この様な日常生活を送っているなかで、何か事故が発生し、孤独死をしたとしても誰も気づかれないなどということは他人事ではありません。(日本ではこの様な孤独死が多く報道されていると聞きます)とても心配で憂鬱な事です。
それでも、多くの帰国者が東京の御徒町にある2つの帰国者交流センターに通っていますがとても遠く、往復するのに3時間から4時間もかかる事もあります。ある人は帰りに迷ったり、電車の乗換えを間違えたりして、本来ならば一時間ぐらいの道のりを倍以上の時間を掛けて家に帰り着いたら、心配した家族が一家総出で探し回っていたこともありました。またある人は、糖尿病があり途中で低血糖を起こし、力が抜け、道端に倒れ、お巡りさんに送ってもらった。このような事例は珍しくありません。
言葉が喋れない、道不案内など色々な原因がありますが、段々と出不精になり、家の中に閉じこもり、中国のテレビ放送を友とし,やがて近づいて来る死に向って、単調で味気ない毎日を過しながら生活しているのです。
東京の帰国者交流センターや所沢のボランテイア団体中国帰国者交流会に参加したいと思っていても、他の市や区役所が支援法を守らず交通費を出してくれないので、参加したいと思っても、参加する事も出来ません。
私達の生活費はもともと少なく、生活費の中から交通費を捻出することになれば、家計を圧迫するので参加する事が出来ないのです。
所沢中国帰国者交流会に感謝
所沢中国帰国者交流会のことについて、皆様に分かっていただきたいことは、私達孤児が各地に定住してからも、心の不安定や生活にも不安を抱え苦しんでいたこの時期、交流会のサポーターの方々が、父や母、兄弟姉妹そして家族の様に暖かい援助の手を差し伸べてくださいました。
私たちへの援助は、さし当たっての困難を一つ一つ共に解決して乗り越える事が出来ました。そして、交流会は私達孤児の本当の拠り所になったのです。交流会の方たちの援助によって、私達の揺れ動いていた心が、温かく穏やかに安定した気持ちを取り戻しました。
私達孤児のために力を注いでくださっている方たちも、年齢は私達と同じか、歳上の方たちです。皆さんは多くの病気を抱えながらも、一生懸命援助してくれています。
援助してくださる方たちは黙って私達の話を聞き恨み言ひとつ云わず私達に尽くして下さっています。孤児の為のボランテイアを二十年以上も続けられ、自分達のお金で会場を借りて下さり、多彩で豊富な行事や活動の場を提供してくれました。
日本語の学習、日本の歌、踊り、日本の風俗習慣の講座、年越しや正月の料理、子供を出産したとき、結婚式やお葬式の事、季節の事、折り紙、日本の料理など、中国の料理は、私達が教えました。新年会や地震についての講座、旅行や色々の所への見学会、健康講座等々沢山ありました。
また、孤児が病気や入院したとき、お見舞金やお菓子などもって自宅や病院へ来て下さるのも常です。
定例会のとき、昼食の時、日本式のおかずやお菓子を持ってきて下さったりし、孤児も中国の簡単な家庭料理を持参しみんなで一緒に食事をします。
しかし、ボランテイアの方々はすべての人の体調が良いわけではなく、高齢なのに孤児の心を毎回毎回、感動させてくれ、私達孤児が困難を乗り越える原動力になっています。
奉仕の精神と見返りを求めない、例えば、今は他界されこの世にはいませんが九十歳以上にもなった奥井さんまでが私達孤児に何十年も寄り添ってくださいました。サポートしてくださるボランテイアの方たちと私達は血縁を乗り越えて固い絆で結ばれています。
祖国日本へ帰って来て、幸せだったと思わせて下さい。
私達は残留孤児という特殊な環境に生活している者達です。すでに多くの方が老齢になり亡くなりました。残された私達の余命もそれほど長くないと思われます。残された私達の時間のある間に、祖国日本へ帰ってきて本当に良かった、幸せだったと思わせてください。人生の夕暮れを迎えた時こそ、夕暮れの太陽のように耀かせてください。
私達から見れば、皆さんは厚生労働省の代表です。皆さんが代表しているのは、日本国の大切な部署だと思います。それゆえに私達は皆様にお願いいたします。
私達の死後、私達の子や孫も同じように援助をお願いいたします。子供達の体の中には日本人の血が流れています。子供達には等しく日本国民として差別無く働き、幸せに生活出来る様、私達は、例えこの世を去っても草葉の陰から見守り続けていきます。
最後に、この国が平和で繁栄する事を切に願って止みません。