中国残留孤児の記録「歴史と今」徳永元一、李桂芝夫妻
2〇15・4・16徳永宅 インタビュー 矢嶋和子氏 中国語記録時間7分30秒 以下は日本語に訳した文章です
問、あなたは何処で孤児になりましたか
中国黒竜江省ハルピン市馬家?(まじゃこ)で当時五歳ぐらいだった私は、孤児になりました。それが当時の状況です。
問、当時貴方の兄弟、姉妹の事を覚えていますか
当時、我が家は4人家族で父母と姉と私です。
問、当時、中国での生活はどうでしたか
終戦前はとても良かったですよ
お米のご飯を食べて、おかずは忘れましたがいろいろ有りました。
父は軍人で母は学校の先生でした。
問、家の周囲の環境はどうでしたか
住んでいた所の付近の周囲には日本人の学校が在りました。学校へは200メートル位だったと思います。とても良い環境でした。
平屋の家はみな庭付きで門がありました。
ロシア人が建てた家でした。
8月ごろとても暑い日の放課後、日が暮れるころ家に帰ると母が教えてくれました。
戦争は終ったよ、日本は戦争に負けたよ、それは母が日本語で言ったのです。
すぐに荷物を片付けて馬車に乗り逃げました。
そうしてハルピン市の難民収容所に入りました。
当時の体調は食べ物が悪く、消化できず腹が張り下痢をしていました、冬は寒く足の踵が裂けていました。
多くの子供が死に掛けていました。
弱っていてもまだ死んでいない子供も大きな穴の中に投げ込まれ生き埋めにされていきました。
日本人の看守が居て逃げないように見張っていました。
のちに私も放り込まれ、必死にもがきました。
問、穴に放り込まれた時、すぐに目を覚ましましたか
いいえ、放り込まれたときは、まだ意識があったので分かっていました、それで必死に這い上がりました。その時はまだ病気ではなく、泣きながら必死に這い上がろうとしました。看守が私を押し戻そうと棒で突いたり叩いたりしましたので前歯を2本叩き折られました。それでも必死に這い登り、母の横に辿り着いたところで気を失いました。
問、這い上がってからどうしました?
眼が覚めたときにはすでに養母の家に居ました。
1949年頃中国では、国が各地に小学校を建てました。そこで5年ほど学び卒業しました。
卒業してからは父母の仕事を手伝いました。
父はジェンビンを作り、水を沸かして売っていました。仕事は忙しく学校へ行く暇がありま
せんでした、それで学校を辞めました。
学校へ行った時も、家で友達と遊んだときも「小日本」と言われ喧嘩になると自分が正しく相手が悪くても、家に帰ると私がしかられ、母に叩かれ食事を抜かされました。
一体どうすれば良かったのでしょうか。
養母はとてもきつい人で,山東省の出身でした。
当時、姉と水汲みに行き、二人で担ぎ、姉が前で私が後でした
水をこぼしたり倒したりすると姉ではなく、いつも私が叱られ打たれました。
とても辛かったです。やがて自分で働き始めました。
問、何歳の時仕事を始めましたか
19歳のときです、父と母の仕事を3年ぐらい手伝い、それから仕事に就きました。
問、仕事を始めてからはどうでしたか
仕事を始めてからは割りと順調でした、しかし「小日本」と言われていました。
奥さんの声
「彼が小日本といわれていた時、私は彼が日本人だということを知りませんでした。
1972年日本と中国の国交が回復して、外事部から人が尋ねて来て、そのとき始めて徳永さんが日本人だと知りました。」
日本のおじさんも訪ねてきたそうですが養母が追い返し、会えませんでした。
問、いつ、結婚しましたか
1962年です
問、結婚して何か苦しいことや楽しいことはありましたか
私の人生で一番苦しいことは、自分が本当は誰で自分の名前は何なのか分からないこと、そして帰りたくっても、帰りたくっても木の葉は落ちて根に帰るが、私には帰る根が無い。
そのことが一番辛いことです。
今はこんなに多くの日本の方々が私達を助けてくれてとても楽しい
残り少ない人生ですがとても幸せです。
子供達によく言うのですが、所沢ではこんなに多くの方々が助けてくれ、歌ったり、踊ったりしています。
私達は自転車に乗って参加していますが、あまり遠くありません10分ぐらいで行き着きます。
今は些細な事は、自分達で解決出来ます、市役所などで難しいことは、子供達がついて
来てくれますし基本的には市役所には通訳も居ます。
徳永さん77歳、李さん70歳
今は日本の生活にも慣れて、とても幸せです、環境はとても良いし、空気もとても良い。
ひと月に2回所沢に行って歌ったり踊ったりしています。